ショートショート集
□忘却の雪
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今日が晴れなら、死のうと思っていた。
何故だろう。なんだかとても、そんな気分だった。
世の中の何かを、恨んでいるのかもしれない。
いや、憐れんでいたというほうが正しいかもしれない。
僕の記憶は曖昧だ。
何かの拍子に、ごっそりと過去の記憶が霧散したらしい。
言語は理解できるし、たとえば自転車にも乗れる。
しかし、それらをどのように習得したのか、そういった類の記憶はすっかりと僕の手の届かないところへ行ってしまった様だ。
僕がどのように考え何を体験しそれまでの人生を送ってきたのか、脳が濃い霧に覆われてしまって窺い知ることが出来ない。
それはとても、恐ろしいことだった。
そんな記憶を奪われた僕が見た世界は、とても可哀想だった。
小さなこの社会という箱の中で、それが全てと何かを諦め、考えることを止めてしまったような、人間が。
憐れで。
いつか、自分という礎を失った僕が、過去の僕が知らないうちに多くの大人と同じようになってしまうのが、とても怖かった。
だからいっそ、居なくなりたくて。
だけど臆病な僕は、そのきっかけすら天にまかせた。
偉そうに憐れんでも、結局僕は、単なる弱虫でしかないのだ。
分かっている。
分かっていても、どうにもならないこともある。
だから僕は、無理に過去の記憶にしがみつこうともせず、寧ろこのまま過去を失ったままでも良いのだと、思い始めていた。
だって、もしその抜け落ちた記憶の中に本当に恐ろしい出来事が含まれていたのなら、思い出さないほうが楽ではないか。
「――雪……」
意を決して開け放った窓から見える景色は、曇天からひらひらと舞い落ちる、白く冷たい……粉雪。
夜の間から降っていたのか、黒いアスファルトに既に深く積もっていた。
「一応、予報は晴れだった……ハズ」
間断なく天から注ぐのは、恨めしいほど綺麗な結晶で。
瞳を閉じて息を吸い込めば、冷たい清らかな空気が体内を駆け巡る。