いただきもの

□kiss in the dark
1ページ/3ページ


夕方にはまだ早い時間に、表座敷からいきなり戻って来た大久保さんが「今日の仕事は終いだ。野分(台風)が近づいているらしい」って私に告げた。ああ、台風かぁ…まだ来てもいないのに半休なんて気が早いな、と暢気な事を考えていたら「やはり分からぬか」と大きく溜め息をついてから、私がきりきり舞いする位の指示を飛ばす。

「今の内に水瓶を満たしておけ」休む暇もなく井戸へ行けば凄く混んでいて、藩士さんが次々と汲み上げた水を桶に入れている。それを襷掛けの女中さんが入れ替わり立ち替わり現れては運んでいた。

「奥の内風呂は熱く沸かして火を落としました」「そろそろ炊き出しを始めます」空の桶を置いて重くなった桶を運びながら、女中さん達は水を汲む藩士さんに報告している。

その雰囲気に呑まれて立ち竦む私にその藩士さんが「早く必要なだけ持って行け。まもなく井戸を閉じるぞ」と促す。緊迫感を漸く理解して水を運び終わると、明るかった居間が暗い。

「雨戸、もう閉めちゃったの?」しかも外からガン、ガンって変な音がしてる…勝手口から庭に回ったら驚いた事に大久保さんまで襷掛けで、雨戸に板を張って釘打ちをしていた。

長い廊下の雨戸を一人で封じる気なんだろうか?耳を済ませば庭のあちこちで同じ音が聞こえ、藩邸中が台風対策をしてるのが分かる「手伝います!」脚立みたいな台の上から私を見た大久保さんは口に釘を銜えていて返事が出来ない。でもその目がすっと細くなって脇に積まれた板を見やる。

視線の意味が分かった私が一枚持ち上げて手渡すと、軽く頷いてから雨戸に押し当て金槌で釘を打ちつけた。何度も場所を変えて釘打ちをしている私達の後ろでは筵で庭木を巻いたり、飛ばされそうな小物を片付けたりする藩士さんが庭を走り回っている。まだ空は晴れているのに、だんだん不安になってきちゃった…。

「外はこれでよし」薄暗い部屋に戻ると大久保さんは百目蝋燭って言う非常用の大きな蝋燭に行灯の火を移す「火には充分に気を配れ」燭台の灯りで大久保さんの厳しい表情が照らされ、私はコクコクと頷く事しか出来ない。

私は他にも注意事項を言う大久保さんの、さっきまで釘を銜えてた口元を見つめ続けていた。釘を打ってた大久保さんの姿はテキパキしてて、とっても頼もしかったな。顎をあげて真剣に金槌を叩くトコなんて凛々しくて見とれちゃった。

今キスをしたら鉄の味がするんじゃないだろうか…唇の動きから目が離せない理由はこれ。ぼ−っと眺めていたら、こら聞いているか?そう唇が形作ったのにハッとなって視線を上げた「まだまだこれからが忙しいと言うのに…」

「事の大事が解らぬとは困ったものだ。小娘は家老屋敷に移った方が良いかもしれん」私の不謹慎な考えなんて思いも寄らない筈の大久保さんは、少し心配そう「いいえ!!ここに居ます」大久保さんの側にいれば何が来ようが怖くなんてない「ちゃんと役に立ちますからどこにもやらないで下さい!」

大久保さんはムキになって言い募る私を、品定めするみたいに目を細めて見た。やがてニヤリと口角を上げて「では言われた事をしろ」よもや何をすればいいのかとは言うまいな…試す様な口振りに耳に残っていた仕事を幾つか挙げれば、よしと頷く。

「なんだ、聞いていたのか。物欲しげに私の口元を眺めていたから、口を吸われたくて言葉は頭の中を素通りしているのかと思っていた」「//////」やっぱり大久保さんはお見通しだった…でも恥ずかしくて素直には認めにくい。

「そ、そんな事ありません!ちゃんと聞いてました」意地を張る私を面白そうに見やって「役に立ちたいと言ったが、私にとって一番助かるのは小娘が大人しくしている事だ。外には決して出るな」これだけ分かっていれば良い、いいな?と念押しをしてくる。

熱意を込めて頷き返せば、ふっと目許が優しく下がり「では聞き分けた褒美に欲しいものをやろう…」と顔を近づける。私も目を閉じて受け止めようとした時に「大久保さん、こちらですか?」廊下をバタバタ進む声と足音がした。



次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ