戀〜それはイトシイトシトイフココロ

□甘いうさぎ
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「会社の近くに新しい店ができてな、女性社員たちの評判もいい。
萌黄はチョコケーキか? それともシュークリームか?」


大島萌黄(もえぎ)は、父親の紫苑(しおん)が広げた箱を覗き込みながら、両親に見えないように表情を曇らせた。

両親は、中学卒業と同時に引きこもっている萌黄を責めず、こうして普通に接してくれる。
高校進学のことで、一時期両親が悩んでいたのを知っている。
六歳離れた兄も交えて両親が話し合い、中学時代の苛めの傷が癒えるまでは、少し回り道をしてもいいじゃないかと、寛大な結論を出した家族にはどれほど感謝しても足りない。


だから、萌黄は今でも言い出せないのだ。
中学卒業の前から、甘味を感じることができないことを…―。



心因性味覚障害。

インターネットでこっそりと調べて、多分そうだろうと見当をつけている。
引きこもる萌黄を心配している家族に、心因性の疾患があるかもしれないとは言い出せず、毎回砂を噛むような辛さを隠す。



「ねえ。萌黄。
来週のゴールデンウィークだけど、今年はお兄ちゃん帰れないんだって」

シュークリームに齧り付く愛息子の表情から、以前のような周囲に伝染する笑みが消えていることを、緑は痛ましく思う。
甘いものが好きじゃなくなったのなら、萌黄の性格から考えれば手土産を遠慮するはずだ。
嬉しそうに食べていても、どこか不自然に思えて仕方ない。


「でもね。お父さんは出張に行っちゃうし、お母さんもお祖母さんのお見舞いに呼ばれててね。
お兄ちゃんが、萌黄一人だと心配だから京都に来ないかって。
気分転換にもなると思うんだけど、行かない?」


「……京都に? 僕一人で?」

引きこもっている萌黄には、なかなかハードな冒険である。
しかし、拒絶したら両親も兄も困るに違いない。


不安をいっぱい抱えながらも萌黄は小さく頷いた。

 
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