少年百科

□僕と金魚姫の夏
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「とにかく」
土の上に置かれた空っぽの水槽に向かって、僕は言いました。
「僕らの賭けはまだ終わらない…来年の夏まで。それまで、またね。」

僕が彼女に出会ったのは、夏休み初日の、ごった返した夏祭りの会場でした。
どうしてもやりたくて、30分並んだ金魚すくい。その薄汚れたプラスチックの水
槽を覗き込んだ僕は、今まで見た事のないような真紅の金魚を見ました。その金
魚は優雅に泳いでいて、僕の目を奪います。
周りの人たちは、その金魚が見えていないのか、他の金魚ばかり追いかけ回して
います。
―(さあ、あたしを捕まえて)
何処からか声が聞こえてきました。驚いた僕は、辺りをキョロキョロ見回します
が、何もいません。
―(こっちこっち。あなたの目の前。あたしを捕まえて)
僕は困りました。何故なら、僕の目の前にいるのはあの真紅の金魚だからです。
試しに僕は、ポイをその金魚の下にやってみました。するとその金魚は、僕のポ
イの上まで来て、止まったのです。
思わず僕はポイを持ち上げるとその金魚をボウルに入れ、
「おじさん、僕、この金魚もらって帰る。」
と言っておじさんにボウルを差し出しました。
袋に入ったその金魚を腕にぶら下げながら僕は、何だか満ち足りた気持ちで歩い
ていました。

家に帰った僕は、早速その金魚を水槽に入れました。するとまた、何処からとも
なく声が聞こえてきました。
―(あたしの名前は金魚姫。あなたの名前は?)
金魚姫って名前じゃないじゃん、と思いながら僕は
「僕リョウタ。」
と自己紹介しました。
―(リョー?良い名前ね。涼しそう。)
「違うよ。リョウタ。」
―(リョーで良いじゃない。可愛いから。)
金魚姫は頑として『リョウタ』を受け付けてくれません。
30分の口論の結果、僕の呼び名は『リョー』に決まりました。
そんな訳で、僕と金魚姫の夏休みが始まりました。
金魚姫は名前の通り、お姫様みたいな優雅な動きと話し方をします。
僕はそんな金魚姫の、おっとりとしたソプラノボイスがお気に入りでした。
―(リョー?あたしお腹が空いたの。)
「はいはいはいちょっと待ってて。」
―(嫌ー。待てない。)
こんな具合に毎日が過ぎて行きます。
そんなある日、金魚姫はいつもの様に僕を呼びました。
―(リョー?お話しがあるの。)
僕が金魚姫の元に行くと、金魚姫はこう切り出しました。
―(リョーは、生まれ変わりとか、1度死んだものが生き返るとか信じる?)
「僕はそんなもの、信じてないよ。金魚姫は信じてるの?」
僕はそう即答しました。
金魚姫は少し黙ってから、1言1言を噛み締める様に言いました。
―(あたしは、信じてるの。
…ねえリョー、あたしと賭けをしない?あたしが死んだら、庭に埋めて、その上に
この水槽を置いておいて欲しいの。来年の夏休み初日、あたしが生き返ったら賭
けはあたしの勝ち。あたしはリョーを笑うわ。不思議を信じられない、可哀相な
人間だって。もしもあたしが生き返らなければ、賭けはリョーの勝ち。リョーは
あたしを嘲笑ったら良いわ。そしてあたしを記憶にとどめておいて欲しい。生き
返りを信じる、愚かな1匹の金魚がいた事を。どう?乗らない?)
面白いと思った僕は、その賭けに乗る事にしました。

次の日、自分の死期を悟ってあんな話を持ち掛けたのか、僕が起きると金魚姫は
真紅の腹を水面に向けて、静かに浮かんでいました。
僕は念の為に、
「おはよう…金魚姫。」
と声を掛けました。
―相変わらず遅いわ。お寝坊リョー。
いつも聞こえて来るソプラノボイスが聞こえません。
僕は少し悲しくなってしまいました。零れそうな涙を抑えつけて金魚姫をそっと
濡れたガーゼで包むと僕は、裏庭に出て金魚姫を土に埋めました。勿論、その上
に空の水槽を乗せる事も忘れてはいません。
夏休みの最終日でした。

「とにかく」
土の上に置かれた空っぽの水槽に向かって、僕は言いました。
「僕らの賭けはまだ終わらない…来年の夏まで。それまで、またね。」

柔らかい土の上に置かれた水槽はひどく無機質に見えて、僕はまた泣きそうにな
りました。



僕が再び彼女に出会ったのは、夏休み初日の、裏庭の水槽の中でした。
―(久し振り、リョー。あなたを笑いに帰って来たわ。暑いの。水槽に水を入れて
くれる?)


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